釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
仏教の開祖。
釈迦文尼・奢迦夜牟尼・釈迦文とも書き、略して釈迦・釈尊ともいわれる。
また能仁・能忍・能寂・能満等と意訳される。
釈迦は種族の名で、能、即ち能力の意。
牟尼は尊称で聖者を意味し仁・忍と訳す。
仏すなわち仏陀は心理実理を悟った者、覚者の意。
即ち釈迦牟尼仏とは釈迦族出身の聖者のこと。
釈迦の姓はGautama(瞿鈍。最もすぐれた牛の意)で、更に幼名をSiddhartha(悉達多。目的を達成するの意)といったことからガウタマ(ゴータマ)シッダルータともいう。
また釈迦族の中でも日種(太陽氏族)の1人で、ヴェータ以来の聖王イクシュヴァーク王(甘庶王)の後裔とされるところから、日種・甘庶の性を用いることもある。
釈迦は釈迦族の王である迦毘羅衛城主・淨飯王を父、隣国の拘利国王女・摩耶婦人を母として、婦人が出産のために帰国する途中、国境付近の藍毘尼陰で生まれた。
まもなく生母と死別し、叔母の摩訶波闍波堤によって養育された。
文武両道にわたり教育を受け、恵まれた少年時代を送ったが、成長するにしたがって深い思索にふけることが多くなった。
やがて耶輸陀羅女を妃に迎え、一子を羅ご羅をもうけた。
後継ぎができると、やみがたい生老病死の問題解決への情熱を感じて、19歳の時、かねてからの志であった出家を決意した。
出家した釈迦はマガダ国に至って、多くのバラモンを訪ねた。
当時、禅定の大家であった阿羅羅迦蘭と欝陀羅羅摩子という2人について学んだが、その説にあきたらず、両人のもとを去って尼連禅河の畔・優褸頻螺村の林に住んで、苦行を行った。
父王は釈迦の身を案じて阿若きょう陣如ら5人を侍者つけて共に修行をさせた。
しかし苦行によって解脱の法を体得できないと悟った釈迦は苦行を捨て、父王のつけた5人とも別れて伽耶城に至り30歳の時、菩提樹の下で沈思黙想を続け、ついに大悟を得て仏陀となった。
仏陀となった釈迦は波羅奈国の鹿野苑におもむき、かつて別れた阿若きょう陣如ら5人の比丘を化導した。
マガダ国の王舎城では頻婆娑羅王を教化して竹林精舎の寄進をうけ、舎利弗や目けん連を弟子に加えた。
更に従弟の阿難・阿那律、一子・羅ご羅、父の浄飯王、義母の摩訶波闍波堤、妃の耶輸陀羅女のほか、舎衛国波斯匿王、祇園精舎を供養した須達長者など、階層・種族の差別なく、あらゆる人を化導したが、この間多くの迫害(九横の大難という)も受けた。
こうして釈迦は成道して以来、華厳・阿含・方等・般若・法華各部の諸経を説き、50年間に説いた法門は莫大な量で、後に八万法蔵と称された。
そして、80歳の時、拘尸那城外の紗羅林で入滅した。
火葬に付された遺体の舎利と灰は10か所に分布され、塔を立てて供養され、同じ年に王舎城で第1回の仏典結集が行われた。
釈迦の生存年代は、古来、中国・日本では周書異記を根拠に、周の昭王24年(BC 1028)4月8日〜周の穆王52年(BC 949)2月15日とされているが、諸説があり、19歳出家、30歳成道に関しても29歳出家、35歳成道等の異説がある。